春が近くなった冬の朝。太陽は天高く輝いているが、酷く寒かった。早朝の買出しから帰宅の路についていた俺は、ふと空を見上げ、雲を眺めた。
暫く眺めてから、何時もの場所へ向かう。自分しか知らない、秘密の場所。と、言うほど大げさなものではなく、ただの草原だった。だけど俺は暇さえあればそこで寝転んで、空を見上げていた。
酷く寒い冬の朝に、少し暖かい春の風が吹く。最近のお気に入りだった。ようやく芽吹いた新緑の上で寝るのが、凄く気持ちが良くて、そこから眺める空は絶景だった。
強い風が、髪を撫でる。その風に流され、雲が飛んでいく。
「ルルーシュ」
不意に、声をかけられた。振り向くと、明るい草の色の髪をした少女。彼女を見た瞬間、頭が少し痛んだ。
「…っ」
誰だ?解からないけど、何処かで会ったような気が、する。いや、会っていた。俺にとって…大切な?
「…そうだな、私の事を覚えていないのか」
「……ごめんなさい」
彼女は落胆と、安堵と、色々な感情が混ざったような、心が痛くなるような表情で苦笑した。彼女を覚えていない。確かに知っているはずなのに。それがとてもいけない、罪深いことのような気がして。
「気にするな、解かっていたことだ」
俺を励まそうとしたのか、彼女は、曖昧に笑った。ルルーシュにはそれが嘘だと直ぐにわかった。そう、彼女は嘘、というよりか、ごまかすのが下手だった。
「……ぅっ」
さっきよりも頭痛が激しくなっていた。思わず、頭を抱え、座り込む。
「大丈夫だ、無理して思い出す必要は無い」
優しく抱かれる。ふと、陽だまりの匂いがした。何だか、前にもこうして抱きしめられていた気がする。
「……ルルーシュ、もう大丈夫か?」
「うん、ありがとう」
どれだけそうしていたか、彼女がふっ、と離れた。何処か懐かしくて、俺はは名残惜しそうに、彼女を見つめてしまう。彼女はそんな俺から目を逸らすように空を見上げた。
何処までも、何処までも続いていきそうな青。
「私は、もう行くよ」
彼女は切なそうに笑った。ずっと彼女は笑っていたのに、きっと心は笑ってない。
「…教えて欲しいことがあるんだ」
「何だ?」
笑顔とは一転、彼女は酷く億劫そうに溜息をついた。何故か、やっぱりそれが嘘っぽく見えた。
「以前から、会っていた事がありますよね」
「…ああ」
「…俺とは、どんな関係でしたか?」
それは、純粋な疑問だった。彼女は俯いて、少し考える素振りを見せた。表情は見えなかったけど、初めから答えは出ている。そんな気がした。
「…共犯者、かな」
そう言って、彼女は背を向けた。俺はただそれを見つめていた。
「ア………」
無意識に口から発せられた言葉は、酷く発音が曖昧で、風に、空気に溶けて行った。でも、彼女の耳には届いていたみたいで、振り向いてくれた。
彼女は泣いていた。でも笑っていた。
――――――――――
「ただいま。ごめん、遅くなった」
「おかえりなさい」
家に帰ると、ユフィが既に昼食の用意をして待っていた。
もうそんな時間なのか…?思いもよらない時間の速い流れに驚きつつも、手早く食事の準備を手伝う。
「…で、どうしたの?こんなに遅くなるなんて」
「え?ああ、帰り道に緑色の髪をした女の人にあって、少し話してたんだ」
「ふーん、そんな人いたかしら?」
「わからないんだ、どこかで会ったような気がしたんだけど」
ユフィは少し考える素振りを見せたあと、興味が無くなったのか、何も言わず再び食事に箸をつけ始めた。
「なあ、ユフィ」
「なぁに?ルル」
「…俺達って、何時からここで暮らしてるんだっけ?」
「……?」
あれ?俺は何を言ってるんだろう。ずっと前からに決まってる。でも、ずっと前ってどれ位?
「え?何を言ってるの?」
堂々巡りしていた考えは、ユフィの一言で中断された。そして、考えなくなった。
少し前に彼女に会ったときに、こんな風に何かを疑問に考えたことが会ったような気がする。
あ…れ?彼女?誰に、会ったんだっけ?
――――――――――
空を見上げた、天高く聳えるのは満月。月の光は生い茂る森林に阻まれながらも、僅か僅かに降り注ぐ。
先ほどまではその満月を覆い隠すように雲が溢れ、激しい雨を降らせていた。雨音以外、音は無く、風は吹かず、全てが寝静まっていた。この森林を駆ける二人以外は。休まず、絶えず、細かく降り注ぐ雨。何を洗い流そうとしているのだろうか。自分の罪か、彼女の想いか。地面が緩く、ぬかるんで、足が縺れる。
何処まで走ったのか、何処まで逃げたのか、やがて足が疲労で動かなくなる頃、二人は湖に辿りついた。逃げるのに夢中で雨が降っていることも、雨が止んだ事もわからなかった二人は、全身を泥だらけにして、その畔の樹に腰をかけた。
風が無いのに、樹が揺れていた。月の光の中に影がさす。光を放つ満月は雲に翳っていたけれど、構わず眩しいほどの光を降り注いでいる。
視界には一面に広がる広大な湖。そこに、巨大な満月が鎮座していた。空を見上げる、満月は見えなかった。
彼女も、自分も、寂しそうな目をしていた。泣きたくても、泣けない。泣く方法も、泣く場所も、泣けば気持ちが晴れるだろうことも知っているのに、なお泣けずにいる。
だから逃げた。全てを捨てた。お互い大切な人を、自分の心を置いて逃げた。それは何て愚考で愚行。けれど、あの時の二人にはそれしか思いつかなかった。そして、ここまで来てしまった。後悔しても、もう戻れない。
風が吹き始めた。水面に映る月が大きく揺れてぼやける。だが、そこから冴える光は天を抉り、雲を刺し、脆弱な光を空に放つ。風は森林を揺らし、哀憐に音を鳴らし、光を揺らす。
水面の月に二人の姿が映る。揺れていたけど、はっきりと。そこに映る男の左眼が闇夜の中でもはっきりと解かるほど鳴動していた。
一瞬の立ちくらみが二人を襲った。目を瞑り、泥に膝をつく。薄れ行く意識の中で、自分の全てか泡沫の様に消えていくのを感じていた。
――――――――――
「ルル、私。ずっと叶えたい夢があったの…」
気がつくと、ユフィが立っていた。俺は俯いて顔を覆った。これは幻だ、俺か、ユフィの夢の中。いや、もしかしたらそんなでモノでもないのかもしれない。
「昔みたいに、皆で楽しく、幸せに過ごしたかった。それはあの時貴方を知って、更に強くなった」
ユフィもこちらを見ていなかった。涙と嗚咽で声が震え、悲しそうに顔を伏せていた。そんなのは叶わない夢。ただの願望。
「……俺も、そう思っている」
嘘だった。気休めにもなら無い嘘。自分すら騙せない嘘だけど、自然と口から出ていた。
「………」
ユフィは悲しそうな表情でこちらを見ているのを感じる。
「…今はもう無理だけど…ユフィ」
「……私」
上を見上げた。月が死んだように照っていて、月光が妖しく舞っている。風は止まり、空気すらも動かない。
緩やかな時間だけが、流れるように動いていた。
――――――――――
目を覚ました少年は全てを忘れていた。
隣に寝そべっている少女は安らかな寝息を立てている。
此処は何処だろうか?
一瞬だけ考えて、すぐに止めた。
生きているのか、死んでいるのか。
現実か、夢世界か。
少年と少女には、さほど問題ではなかった。
いや、問題にすらならなかった。
ただ二人で、此処に居れればいい。
それが全てを捨てて、逃げ出した愚者の末路。
少年の名前は、ルルーシュ。
少女の名前は、ユーフェミア。