目を開けると、頬が濡れていた。
まだ渇いてなく、泣いていたのはつい先ほどの事なのだろう。目の前には見覚えの無い白い天井が、広く広がっている。身体を起こすと、芯を突くような痛みに襲われた。ふと身体を覗き込んでみると、上半身全体に包帯が巻かれ、その至る所に紅い染みが出来ている。
必要最低限の物しか置いておらず、部屋を飾るものは何一つ無い。ただ、小さいナイトテーブルの上に、幾つかの写真が飾られていた。窓から見える景色はやや暗く、まるで何処かの庭園を思わせる様相だった。綺麗な花が咲き、遠くには噴水も見える。ただ、そのどの景色にも見覚えは無かった。

――――――――――

外は、まだ暗かった。ただじっと見つめていた。漆黒の景色を。
痛みを感じてしまった身体と意識は、眠りにつけそうにも無かったので、ベッドの頭を背もたれに、枕を挟んでもたれかかる。部屋の中は外よりも暗く、際限の無い暗黒と、さらには一切の静寂に支配されていた。
また、変に頭を動かすと、頭痛が襲ってくる。額にも包帯が巻かれており、自分はよほどの重症だと苦笑した。意識は半ば覚醒していたが、見覚えの無い世界と、何処だかぼやけた余韻の残る呆けた意識は、夢に浸かっているような錯覚を覚えさせていた。何とかソレを払拭しようと試みるが、全く上手くいかなかった。

「……ッ」

左眼からこめかみへ、こめかみから脳髄へ鋭い痛みが走る。まるで、細い針金を右から左へ通されたような、鋭利な痛み。頭の中、意識を蹂躙するような痛みは脳髄を走り回り、強く突き刺す。その痛みは視界を暗く、だが鮮明に支配していった。
暫くするとその痛みも落ち着いてきて、大きな溜息をついた。どれだけの時間をそうしていたかわからなかったが、窓の奥に薄っすらと黎明の光が見えてくる。
太陽が昇り、闇夜が祓われていく。月が消え、星は翳り、蒼穹が舞い降りてくる。そうして平凡な一日が始まる。

「…起き、たのか」

だが、その朝日の昇る前に。

「ルル……シュ」

何処か遠い過去に聞いたことのある、女性の声が響いた。彼女は寝巻きのまま、寝癖も直さずに、言葉通り寝起きのまま部屋の入り口に立っていた。彼女は…この家の主なのだろうか?

「ルルーシュ」

先ほどは無意識のうちに声が漏れたのか、だけど今ははっきりとそう発音した。ルルーシュ。それが俺の…名前?そこでようやく、と言うべきなのだろうか。重要な問題に直面した。
何も覚えていない。そう、文字通り何も覚えていない。自分の名前、家族、そういった自己を形成してきた記憶、自我。そう言ったモノが全く抜け落ちていた。そう感じると、今こうして熟考している自分の意識さえも曖昧になってくる。まるで、誰か第三者が自分と言う人間を通して、物事を見据えているような……

「ルルーシュ!」

彼女は信じられないような、だけど嬉しそうな言い様の無い表情で駆け寄ってくると、この身体を力強く抱きしめてきた。身体の節々が悲鳴を上げるが、何とか押し込める。
彼女は泣いていた。その目尻に涙が溢れていた。その細い身体は震えていて、その唇はかすかに嗚咽を漏らしていた。俺を抱きしめている両手にさらに力が篭る。それは彼女の悲しみと嬉しさを雄弁に語っていた。
俺はそんな彼女を見て、片手で顔を覆って、嗚咽を漏らした。肩が大きく震えているのが自分でもわかる。何でだろう。何で泣いてしまうのか。俺を知る彼女はわかる。だけど、何でそんな彼女を見て、自分が悲しむのか。しかも、こんなに深く。

――――――――――

そして、日が昇った。
彼女が閉じたカーテンのお陰で、部屋の中に鮮烈な朝日が広がることも無く、ただ薄く明るく光が満ちていく。きっと今日は天気なのだろうと、外の景色を想像して笑ってしまう。
彼女は既に泣き止み、だが格好はそのままで俺の隣にずっと座り続けていた。その間も俺はずっと涙を流し続けていた。何故か、その左眼から。そんな俺を、彼女は丁寧に介抱してくれる。それはまるで母親のようで。

「……ごめんなさい。俺、何も覚えて、無い」

「そう、なのか。でも、良いんだ…お前が生きてくれていただけで、私は嬉しい」

そう言って彼女は俺を抱きしめる。今度は痛みは感じず、だけど暖かさが胸を満たしていく。彼女は丁寧に、俺に色々な事を教えてくれた。
俺の名前は、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。17歳。
彼女の名前は、コーネリア・リ・ブリタニア。自分とは異母兄弟。
俺はブリタニアという国の11皇子で、今はイレブンという国に来ている。
要約すると、こんな感じだった。他にも色々教えてくれていたのだが、どうにも本調子ではなく、上手く聞き取れず、思い出せない。
どれ位の時間、談笑に費やしていたのか。コーネリアは慌てた様子で部屋に戻っていく。俺はそんな彼女の様子を苦笑して見つめていた。

――――――――――

一人になった部屋で、ふと考える。
記憶喪失の理由。彼女と自分の関係。何故だか違和感を感じていた。それが何なのかはわからない。

「…あ、れ?」

考えてもしょうがないと思いつつ、立ち上がろうとしたが、足が全く動かない。力が全く入らなかった。もう、苦笑するしかなかった。記憶は無い。自分自身も曖昧。おまけに足は動かない。

「……?どうしたんだ?」

急いで戻ってきたのか、息を切らしながらコーネリアは不思議そうに此方を見つめている。

「…足、動かない」

自分でもわかる位の、諦めの響きを含んだ声だった。コーネリアは何を言おうとしたのか、だけど咀嚼するように、嚥下するように頷いた。理解するように、認識するように。

「そうか…今日にでも、医者を呼ぼう。何、きっと一時的なものだ」

勤めて無表情に、動揺を表に出さないように、そう我慢しているように俺には見えた。そんな彼女の気遣いが嬉しくて、少し悲しくて。俺も自分の諦めを億尾にも出さないように、しっかりと頷いた。
コーネリアは少し考えた素振りで立っていたが、ゆっくりと窓辺へ歩いていき、カーテンを開いた。
余りの眩しさに目を細める。光が待ちわびていたと言いたげに急速に部屋を満たしていく。それは輝くように。窓から見る空は雲一つ無く、予想通りの晴天だった。太陽が輝いていて、外の世界が煌いている。

「良い天気だね。姉さん」

「………ああ」

姉と呼ぶのは結構緊張した。きっと今、俺は耳まで赤い。それでも無邪気な笑顔を浮かべられているに違いない。姉さんが驚いたようにこちらを見る。その姿は窓からの光を浴びて、煌くように美しかった。

――――――――――

彼は何も変わっていなかった。記憶は失っていても、その芯の強さは変わらなかった。記憶喪失で、足も動かず、何て壊れた体。ここで、彼が狂ってくれて、自暴自棄になってくれていればどれだけ私の心は楽になっていたか。
彼は記憶を忘れたが、その感情を忘れたわけではなかった。それが、堪らなく私には辛い。ユフィを、クロヴィスを手にかけて、血に染まったその手で、私を姉と呼ぶ。この揺れる感情を押さえつけるだけで精一杯だ。
全てを思い出した後でも…彼は、あのときの笑顔を私に向けてくれるだろうか?

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