深く呼吸をした。温い空気が肺に押し込まれていく。見渡す世界は何もなく、ただ目の前に螺旋に続く階段がそびえているだけだった。足音も立てず、それを上っていく。一段登る度に、一段消え、それの繰り返しだった。何時からそうしていたかは覚えていない。何段登ったかは、千より先は数えていなかった。視界は目まぐるしく変わり、草原、海原、森林、砂漠など、数々の風景色とともに歩いてきたが、随分と前から何もなくなった。終わりが近いと、直感が告げていた。

……はぁ

視線を落として歩き続けたら、何度目かのため息をついた。この重苦しい空気を吐き出したところで、胸にある陰りが取れることはない。期待していたわけではないが、何時まで続くかと思うと、少し倦怠になってしまう。
鐘の音が聞こえた。耳を劈く音でもなければ、頭が割れるような音でもない。だが確実に頭に、心に響いてくる音だった。聞き覚えのある、アノ音。影時間を告げるチャイム。あの頃はまるで悪夢の音に聞こえていたが、今となっては少し寂しくも、懐かしい音だった。耳を塞いでも響き、頭を抱えても響いてくる。何度も頭の中で残響し、静かに沈んでいく。
かちかちかちと、時計の音が聞こえてきた。何処から聞こえてくるかは分からない。だから歩き続けることにした。きっとこの音は、終点を告げる合図なのだろうと思いながら。かちかちかちと、無機質に針が音を立てている。いや、刻んでいるのだろう。終わりの時間と共に、俺の存在というものを削っていっている。意思も、記憶も、身体も、心も。

………

周りを見た。何もなく、気温もなく、風もなく。澄み渡る闇。視界の先で、終焉の灯火が光った様な気がした。ゆらりと、闇が揺れた。不思議と沸きあがった昂揚心を抑え、歩き続ける。静謐の支配する闇の中を、何かを確かめるように。歩き始めた子供のように、歩き続けた。足を前に出す、それの繰り返し。この終点が何処かと考える必要はない。例え道を外れてしまっても、多分問題は無い。きっと、この身体が道を教えてくれる。

かーん かーん

終わりを告げる鐘が鳴った。時計の音が止まった。闇は霧散し、景色が生まれる。天高く聳える満月。そこから溢れる光が、俺の立つ大地をきらきらと照らしている。まるで俺がここに辿り着いた事を心から祝福するかのように、地面が煌き、輝いていた。降り注ぐ満月の光がこの世界中を覆う。忘れない、この景色は。この存在全てを投げ出す覚悟で辿り着いた、物語の最終地点。満月への橋。タルタロスの屋上だった。

影時間

人が人である限り、決して辿り着かない無業の地。命を知るものが辿り着く、新しい世界の入り口。まさしく夢幻。木々は眠り、人々は止まり、風さえも踊ることをやめてしまう。その中で、満月はその輝きを増し、星と共にこの闇に鎮座している。

何て綺麗な、月

立ち尽くす中、そう思ってしまった。数え切れないほど見てきた、飽きるほどに見続けてきた夜空だった。だがそれでも、この景色は心を捕らえて離さない。

………

月光が少し翳ると共に、目の前に影が堕ちた。その影はざわめきの声を上げ、一つの形を成していく。不思議と確信したことがあった。

これが、俺の最期。ここが俺の終点。

目の前には、もう一人の自分。望月綾時が、確かにそこに存在していた。

 

――――――――――

 

綾時の表情は穏やかだった。ただそこにいるのが当たり前かのように立っている。おそらく、そうだったのだろう。俺を、待っていたのだ。

「こんばんは」

「……よう」

普段通りの挨拶を交わす。それだけなのに、酷く懐かしい感じがした。

「…驚いた。まさか、君が此処に来るなんて」

「……………」

「何故なんだい?理由があれば聞かせてほしい」

「あ…?」

「君は何故、此処に来たんだい?」

「……」

「君は、此処に来る事を選ばない選択も…」

「うるせぇよ」

「む…」

「良いんだ、これで」

「…それじゃあ、君が報われない。何で?君は生きていたくないの?」

「………」

「君は、それだけの事をやったんだ。だって…」

「リョージ」

「……何さ」

「俺は、死んだんだ。あの時、お前に刺された時に。覚悟はしていた。こうなることは予想できていた。後悔は無い。自分が正しいと、そう思ってたからな」

「でも、それでも…僕は」

「気にするな。さあ、無駄口は終わりだ。時間も少ないんだろ?」


――――――――――

 

鐘の音が響く。時計の針の音がする。それは影時間の終わる合図。これが最期。この時間が終われば、此処はあらゆる次元から切り離され、永劫に佇む事になるだろう。その前に、死ななくてはならない。体中が覚醒している。抑えきれず、堪えきれず、万象あらゆる力が、漲っている。今まさに燃え尽きようとしている命の輝きを、その揺らめきを、綾時は見つめていた。

終わる時

もっと彼と話したかった。触れたかった。笑いたかった。泣きたかった。怒りたかった。しかし、既にその願いは空虚となり、叶わない。
今まで自分は彼と共に輝いていたと思っていた。彼と契約を交わした時から、彼の中で感じてきた全ては、喜びだと思っていた。そう信じ込んでいた。だけど、今この時になって始めて知った。今までの輝きは、自分で感じていたものではなく、彼から与えられていたものだった。今まさに、自分の心は輝いていた。泣きたい位に悲しくて、喚きたい位に悲しくて、どうしようも無いほど悲しくて。今まで無条件に与えられてきた膨大な幸せが、もう終わる。
気がつけば泣いていた。涙は溢れて、濁流のように流れ続ける。止めようとも思わずに、ただ溢れる涙を流し続けた。一体どれだけの生を彼に与えてもらっていたのだろう。自分の一部か、半分か、それ以上か、はたまた全てか。今となってはどうでもいい。だって、決してこの涙が枯れる事は無い。

「…オイオイ」

綾時の泣き顔を見て、智哉は困ったように苦笑した。それが合図となり、泣き顔のまま、綾時は叫んだ。堪えていた物が一瞬にして断ち切られて、崩れたように膝を突く。嗚咽を漏らし、泣き叫んだ。

「解らない!!何で僕達なんだ…っ!!僕は…君だって!!もっと、皆と一緒に…!!」

叫びたい言葉は発せられず、嗚咽となって溶けて行く。智哉は綾時の隣に座って、黙って背中をさすった。綾時は一瞬泣き止んで、智哉の方を見たが、またゆっくりと嗚咽を漏らし始めた。智哉の目は悲しそうで、とても辛そうだったから。

鐘の音が大きくなっていく。時計の針の刻む音が早くなっている。いよいよ、近づいてきた。

「泣くな」

酷く曖昧な笑顔で智哉は言った。隣に座る綾時は反応を示さない。

「綾時」

はっきりと綾時の名を呼び、智哉は向き合った。まだ綾時は嗚咽を漏らして涙を流していた。それがたまらなく愛しくて、抱きしめた。強く、ただ強く。本当ならもっと二人で遊んでいられるはずだった。二人だけではなく、寮の皆で、これから先の世界を生きていたかった。でも、それは出来ない。身を引き裂かれそうなほど悔しい。溺れてしまうほど悲しい。今からでもきっと間に合う。でも、それは絶対にやってはならない。
だってさ、そうだろう?
俺はきつく目を閉じた。

 

――――――――――

 

その空は晴れ、青黒い夜空が星と共に広がっている。月の光は橋となり、夜空を突き抜け、天を穿つ。二つの魂は絡み合うように一つとなって、月の橋を渡っていく。その終焉を、満月は見届けた。
やがてその満月も朝日に沈み、太陽が昇り、何時もと変わらない日々がくる。誰も気がつかないまま、雪南智哉の魂は翔華する。やがて関わって来た人々の記憶からも砂のように消えていくのだろう。その悲しみも、思い出も、その在り方さえも。
だが、それでも雪南智哉は生きていた。その生きた証は、この世界そのもの。この世界は彼が命を賭して残した、真実。

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