淡く呆けた夢を見ていた。
一年前から、共に寄り添って、互いに支え合い、共に歩いて来た仲間達。喜怒哀楽ばかりで、あっという間に過ぎ去っていった日々。
その中でも、自分にとって大切な青年の夢。他の誰かが、全てが彼を忘れても、私は覚えてる。

天高く聳える月に飛び立つ彼。全てを悟った表情。ただそれを見つめていた自分。それしか出来ない自分が悲しくて、どうにも出来ない自分が情けなくて、辛かった。
そして混ざり合っていた現実は過去と分かれ、全ては正しい時の流れに戻る。

だが、それは悪夢のような日々の始まりだった。
消えた彼、文字通り彼はこの世界から消えた。誰も彼の事は覚えていない。アイギスさえも。けれど、私だけは覚えていた。声も、姿も、息遣い、交わした言葉の数々。それは嬉しくもあり、残酷でもあった。泣き出したい心持ちを胸に秘め、時間を過ごす。彼が居なくても変わらない日常。切なくて、悲しくて、疼く想いを独り慰めた事も少なくなかった。

「ふん、お前らのせいだぜ……今更、俺の命惜しさで本来の目的忘れるな…これで、終わりなんだからな」

アノ夜に、泣き叫ぶ自分に言った彼の最後の言葉。彼は知っていたのだろう。全てが終わった時、自分自身がもう存在しない事を。あの時の事は忘れられない。そんな辛い台詞を言わせてしまった、言わせる事しか出来なかった、自分の不甲斐なさを。

 


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冬は過ぎ、来ない筈の春は暖かかった。
とても、とても大切な事を忘れているような気がする。心の奥底で穴が開いている気がする。その穴は最初は米粒のように小さく、だが次第に成長していき、今では私の心より大きくなってしまった。不安と不思議な気持ちが常に胸を行き交う。だがそれは何ももたらさず、ただ卒業が近くて感傷に浸っているだけだろうと思っていた。

「…う、ん」

ある夜。誰かの夢を見る。その誰かと一緒に寝て、一緒に目覚めて、一緒に話をして、一緒に食事して、一緒に遊んで、一緒に出かけて、一緒に笑って、時々喧嘩して。何故かその夢の中が、本当の自分の居場所に思えた。ずっと、ずっと前から憧れていた幸せな日々。そう、まるで夢のような日々。
目覚めた自分は泣いていた。涙で枕が濡れていて、頬にくっきりと跡がついていた。辛い、寂しい。この寮には沢山の学生が寝泊りしている。よく話もするし、休日には一緒に出かけたりもする。だが、独りだと今は感じてしまっていた。その付き合いが、とても上辺だけのもので、とても空虚に感じてしまっていた。

そして、卒業式の朝を迎える。

無事、卒業式も終わり、荷物を纏め帰路に着く。だが、何かが心に引っかかる。言い様も無い何か。緊迫して、窒息してしまうほどに心を締め付ける。

「…っ!?」

何かが終わろうとしている。虫の知らせとは程遠く、本能に訴えかけるような胸騒ぎは、心を焦がし燃やし尽くすほどに苦しく荒れ狂う。気がつけば駆け出していた。どこに向かっているのかは自分でも分からない。だが、意識は学園に向いていた。

「…はぁはぁ」

校門に着くと、僅かに揺れる桜の木が目に付いた。遠い意識の中で、何かが繰り返される。

「…美鶴」

聞き覚えの無い、だけど知ってるような青年の声。私はその声に誘われるように歩き出す。
春を告げる風が、少し濡れた肌に纏わりつく。気がつけばかなりの汗を流していた。風が髪をなでる、胸騒ぎが大きくなる。汗ばんだ体は少し冷たかった。

目の前には屋上への扉。開けたくない気持ちと、開けたい気持ち、二つの気持ちが胸の中で渦巻いている。歩いて行くうちから、頭のどこかに確信はあった。そしてここに立った時にそれは固まる。

私はドアノブに手をかけた。

 


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その瞬間、全てを思い出した。陽光が降り注ぐ空間。風が穏やかに流れてる空間。そこに青年は一人、まるで死んだように眠っていた。美鶴は深呼吸をし、頭上を仰いだ。

「智哉」

忘れていた彼の名を呼ぶ。何時から忘れていた?昨日?一昨日?一週間前?一ヶ月?それすらも今までわからなかった。覚えていたはずなのに、覚えていたことすら忘れていた。

「智哉」

止まらなく流れる涙を持て余して、美鶴は智哉に向かって歩き出す。答える者はゆっくりと手招きをしただけだった。

「美鶴」

美鶴が横に座ると、智哉はゆっくりと目を開けた。

「さっきまで、アイギスがいた」
「…?それで、アイギスはどうしたんだ?」
「席を外してもらった。お前が来る気がしたから」

そう言って智哉は「膝枕」とだけ言って美鶴の太腿に頭を乗せる。

「最後に、お前に会えてよかった」
「最後、だ、なんて…」

智哉は淡々とそう言った。美鶴の瞳からあふれてこぼれた涙が雨のように智哉の頬に降り注ぐ。智哉の手がそっと美鶴の頬に触れる。その手はかさかさと音を立てそうなぐらい乾燥していて、今にも崩れてしまいそうだった。

「この一年間、悔いは無い。俺は生きた。それだけで十分だ。この一年は生きる目的をくれた。人の温かさを教えてくれた。思いの大切さを教えてくれた。命の儚さを教えてくれた。そして、美鶴。お前は俺に愛の尊さを教えてくれた」
「と、も…」
「来ない筈の日常が来た。これが全てだ。真実だ。荒垣先輩は死んだ。綾時も消えた。そして俺も、もう死ぬ。でも、それで終わりじゃない。俺達の行動、進んできた道は残る。それで十分、だ」
「そんな、し、死ぬ―――」

その先の言葉は出てこなかった。智哉が美鶴の顔を引き寄せ、唇を重ねる。貪る様に、美鶴の口内を喰い尽くすように舌を動かす。舌を絡め、唾液を飲み干し、ただただ犯し続けた。
こんな事をしても、ただ辛くなるだけだと智哉はわかっていた。それでも、美鶴を愛した。もう、この命が消え去ろうとしている。だけど、まだここに生きている。彼女を愛することができる。
嗚咽が止まらない、次第に息が苦しく、意識が朦朧としてくる。もう、美鶴が何を言ってるのかも聞き取れなくなってきた。思い浮かんだのは、最後の、ニュクスと対峙した、あの瞬間。あの時、確かに俺は辿り着いた。定められた運命を解き放った。これから、美鶴達は、さらなる苦難の道を歩くことになるかもしれない。そこにどんな意味があるのか、俺はわからない。それでも、きっと……

随分と傾いた陽の光が、ゆったりと智哉に降り注ぐ。うとうとと、ゆっくりとその瞳が閉じられていく。死んだ者の行く場所など、誰一人としてしらない。智哉以外は。彼は、この世のあらゆる物から解き放たれ、光の橋を上っていく、遥か天空の頂まで、その先まで。風が強く吹き荒れ、陽光が眩く照らす。そしてやがて陽は暮れ、世界を覆う夜は、一つの命を何処かに連れて行くのだろう。その存在も、意識も、生の残滓も。だが、彼の全てがこの世から消えても、彼が生きていたことは決して変わらない。

「最後の最後で悪いな…美鶴、愛してる……」

雪南智哉の命は、ゆっくりと、ゆっくりとその幕を閉じていった。空は清々しいほど蒼く、窮屈なこの世界から弾けそうなほど広がっている。それは前から、何時もと変わらない空。

 


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悲しみと痛みで目が覚めた。未だ月の落ちない真夜中。美鶴は別れの夢を見ていた。星空が煌き、黎明はまだ遠い。空洞の様に空いた胸を抱きしめ、そっとうずくまった。綺麗に整頓された部屋。その中に静かにひっそりと佇む。切なく心を過ぎる想い。
もう居ない想い人を心に描く。瞳の裏に浮かぶ彼の顔は、他愛のない捻くれた笑顔だった。彼と過ごした日々が、頭の中に残響していく。懐かしい日々が、この部屋を支配していく。枕を背もたれにし、ゆっくりと頭を振る。意識は覚醒せず、余韻の消えない呆けた頭から悲しさが滲み出る。希望に満ちた夢はもう二度と叶わない煌きの夢。それを何時までも願うのは滑稽だろうか。
安眠などと言う言葉から離れて幾つの時が流れただろうか。実際は一ヶ月程しか経ってない。浅い眠りから引き起こる夢は救いであり、幸福であり、絶望であり、悲しみでもあった。ありふれた日常、だけど二度とは来ない過去の追憶。
窓から吹き込む風の音とその感触で、窓のほうに振り向く。カーテンが無機質な音を立てて鳴いていた。窓から見える景色は暗く。一条の明かりも視えない。

胸の奥から込み上げてくる想いが嗚咽となって吐き出される。悲しさが涙となって流れてくる。今にも砕けそうなほど強く噛み締めた歯からは、軋るような悲鳴しか鳴らない。会いたい、今すぐにでも。想うだけで身が引き裂かれるぐらいの儚い愛。砂時計のような短い時間だった。
忘れたい、でも忘れたくない。彼の愛、温もり、笑顔、全てが愛しい。目を閉じるたびに、空を見上げるたびに思い出される。人並みの幸福、温もりすらも与えられなかった薄幸の日々。不器用で、無骨で、冷酷で、それでも誰かの為に努力する捻くれ者。誰が見ても変わり者だった。それでも、好きになってしまった。どうしようもなく好きになってしまった。でも、好きにならなければよかったなんて思ったことは無い。愛し合ったのはたった2ヶ月間だったけど、その日々は幸せで、満ち足りていた。あの時は彼と居る日々が崩れる事を想像するだけで泣きたくなった。それほど彼は私の心を満たしていた。

 


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「今迫ってきてる『死』なんてモノは、くだらない。俺達の生きる意志の力、ここにある確かな想いに比べたら小さい力だ」

あの時、どうしようもなく嫌な予感がしてた。彼が見せた微笑みが、嘘を語っていなかったから。意地でも止めたかった。

「そんな顔をするな。これは俺にしか出来ない、俺がやるべきことなんだ」

これからもずっと隣に居て欲しかった。一緒に笑いあって居たかった。一緒に幸せを感じ合いたかった。それは大事で、とっても幸せな日々で、彼が持つ事の出来なかった、眩しいほどに煌く日々。

「ったく、何泣いてるんだ…ふん、お前らのせいだぜ…今更、俺の命惜しさで本来の目的忘れるな…これで、終わりなんだからな」

彼に触れていたかった。ずっと、二人一緒になって溶けてしまうまで。溢れ出して周りまで巻き込んでしまうぐらいな幸せと、夢と錯覚するほどに楽しい日々。

 


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会えないという現実に潰されそうだった。本来なら記憶から消え去っていたはずの中に、彼との別れの刻を与えてくれた奇跡には幾ら感謝しても足りない。でも、悲しくて、寂しくて、どうしようも出来ない。胸の奥から込み上げてくる嗚咽の止め方なんて知らない。涙となってあふれる悲しみの止め方なんてあるはずもない。また心から愛したい、笑いあいたい、それが叶わなく儚い夢でもわかっていても願いたい。それほど愛してる。この心、想いの全てで、全身全霊で愛してる。
気がつけば嗚咽は感情の昂ぶりと共に悲鳴の奔流となって部屋を駆け巡る。彼が居なくなるなんて死ぬほど嫌だった。あの手を取って、逃げてしまえばどれだけ楽だろうかと一瞬頭を過ぎった。でも出来なかった。自分の欲望の為に、今までを、彼の決意を無下に出来なかった。あの時の彼の判断は間違ってない。

「美鶴、愛してる……」

だけど、彼は最後にそう言った。今でもはっきりと思い出せる。想えば情景となって思い浮かぶ。揺るぐ事の無い決意を秘めた瞳。蒼穹を身に受け、彼は言った。その一言にどれだけのモノが詰まってるだろうか。夢か、後悔か、幸せか、悲しみか、それとも、愛か。
一生懸命戦った。這ってでも進み続けた。そして、ようやく辿り着いた場所が終わりだと。誰が予想したか、誰が望んだのだろうか。それでも、彼は逃げなかった。それだけ、彼は強かった。

だから、私は―――

 


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外には桜の花が咲いている。その桜の木の下で彼女は笑っていた。春の風を受け、踊るように髪が揺れる。桜の花びらが千切れるように舞う。それはまるで一つの絵の様な幻想的な風景だった。
胸は痛くて、何処か欠けている。会いたくて、どうしようもない。切なくて、悲しくて。でも、それでいい。全て受け止めて、前に進む。この悲しみも、痛みも、きっと今だけ。夜は闇のように暗く、月はその中で明るく漂っている。

この出会いも、日々も、別れも、偶然じゃない。運命だった。彼女が彼を、彼が彼女を知ったときに、歯車が回り始めた。回り始めた歯車は愛を生み、想いを育み、そして別れを経て止まる。それは決まっていた運命。
きっと彼も願い、思ってると信じて。

悲しくて、苦しくて、寂しいけど、でも立ち止まることだけは出来ない。彼から、彼らから受け取ったものと一緒に、先に進み続ける。流れる季節と、消え行く記憶と共に。

彼女はゆっくりと瞳を閉じ、眠りにつく。光の橋の先、遥か天空の頂。澄み渡るような蒼穹の中、終焉はない、覚めない日常。彼がそんな幸せな日々の夢を見ていると信じて。

 


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何処かわからない湖の畔。
水面は眩く煌いている。
そこに見渡す限りの花畑があった。
眩く照りつける太陽。
果てには生い茂る木々が風に揺れている。
風は温かく、優しい花の匂いを運んでる。
その花畑の中心で、一人の少女が座りながら眠りについていた。
少女は見るモノ全てを魅き付けるかのように美しい。
その少女の膝の上、抱かれるように眠る青年。
花の匂いに包まれて。
風の温かさに抱かれて。
太陽の温もりに照らされて。
青年は穏やかな表情で眠りについていた。

永遠に続く螺旋の夢。
花風咲き乱れる天空の楽園で、青年は夢を見続ける。
果ての無い幸福の中で。


 

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