物語の始まりを告げた女が夜の闇に浮かび出る。全ての終わりを告げに。一歩ずつゆっくりとたゆたうように。だが、確実にその歩みは急いでいる。逸るのは気持ちだけで、胸に募るのは不安、いや確信にも似た悲哀。胸の痛みに気が付かない振りをして、暗闇の中を急ぐ。だが、歩みは気持ちとは裏腹に進まない。それでも女は告げなくてはならない。女は伝えなくてはならない。女は果たさなければならない。それは他の誰にも出来ない、共犯者として男に付き添った女に与えられた義務であり、権利でもある。

ルルーシュ。もう、終わりなんだ。

その意味は――

―――――――――――

空気に浮かぶ違和感、外気の風が頬を撫でる感触に男は閉じていた瞼を上げた。重苦しい室内に立ち込めた静寂の風。月光も射さない暗黒の部屋の中、視界は黒一色に染まりつくしていたが、今更それに恐怖を感じるほど繊細でも無く、悪夢を見るほど脆弱でも無い。そもそも自分の周りには一条、一欠けらすら光が無いのだから、不自然、不愉快にも思わない。
立ち込める空気は何処か蒸し暑く、近い夏の到来を感じさせていた。窓も開いてなく、其処から見える世界も黒闇に染められ、空に登っているはずの月も陽炎に包まれて世界を照らさない。

「起きたか」

部屋の隅、ドアの前に女が立っている。何時もと変わらない表情、何時もと変わらない声音。無表情のままただ立っていた。

「…初めから、寝ていない」

自嘲的な微笑みを浮かべて男は溜息をついた。その微笑みは達観しており、諦めでもあり、喜びでもあった。女はその自嘲を見据えたまま、鮮緑の髪を漂わせながら、彫像のように立ち尽くしている。少したりとも動かない。僅かに動く鮮緑の髪無かったら、時間さえも凍り付いていると錯覚しただろう。
一面を支配している暗闇の中に一条の光が差し込んでくる。薄い幕となって月を覆っていた雲は切れ、僅かながら月が顔を覗かせていた。その月光が、僅かに男の輪郭を浮かび上がらせている。まるで月光を身にまとう暗闇の皇子のように見えて、その姿を少しだけ美しいと思った。

「終わるのだな、漸く」

まるで誘惑の囁きのような鈴音が部屋の中に染み渡っていく。その声に秘められた澄み切った想いが、部屋の中に満ちていく。

「…あぁ。実感は、まだ無いが」

本心か、皮肉か、それとも別の感情か。虚空を定める視線を浮かべながら、男は呟くように言った。女は小さく溜息をついて微笑んだ。一歩、足を前に出す。ほんの僅かなベッドまでの距離。それを時間を掛けてゆっくりと時間を掛けて詰める。男の輪郭が、曖昧からしだいに確りと浮かび上がってくる。だが女の輪郭は曖昧で。だがそれでも呆然と見惚れてしまうほど綺麗だった。

「覚えているか?私との契約を」

女の溜息が部屋に溶けていく。女の言葉が男に熱を灯していく。その溜息は部屋の雰囲気を塗りつぶしていき、夏を感じさせる暑さは、終わりを告げる寒さに変わっていく。女は長く長く、それを肌で感じながら男を見つめる。喰らうように、飲み込むように。凝視するわけでもなく、俯瞰するわけでもなく、認識するわけでもなく、ただ見つめている。

「覚えている」

男の声に、女の身体が僅かに震えた。

「覚えている」

繰り返した男の表情は無。影も光も浮かんでおらず、だが部屋の闇に反逆するかのように、強烈で圧倒的な違和感を主張している。それはまさしく支配する王。統べる者。男の前では全てが静まり、静寂の世界と化す。風や空気すらも死に絶える、そんな錯覚。

「ルルーシュ」

風も無いのに、鮮緑の髪は舞っていた。女の瞳に浮かぶのは哀憐と悲観。ソレに刺されながらも男は無表情。遠い過去に浮かべていた、翳のある感情は消え去り、ただ其処にあるのは後悔と絶望に塗り染められた脆さと、それが造る美しさ、儚さ。もはや男は壊れていた。張り詰めて、今にも崩れそうな瓦礫の上に立っている。危なげに、だが確りと立っている。不安定に揺れる感情にしがみ付いて、だがそれをひた隠すように。その姿は必死で、痛々しい。だが、人間にはそんな事出来ない。人間は誰もが独りでは立てなくて、だからこそ他人を必要とし、信頼し、愛する。自分に無い世界のカケラを他人の世界のカケラで補いながら、壊れそうな世界を互いに何とか持たせて生きていく。だが、男には必要とする、信頼する、愛するべき存在が存在しない。信頼を傾けていた騎士は死に、心許した親友をこの手で殺し、心傾けていた愛妹は既にいない。だからこそ、女だけが男の傍らに立つ事が出来た。立ち続ける事が出来た。
紫水の瞳が禍々しいほどの鮮烈な視線で女を刺す。虚空を彷徨っていた視線は確かに今此処にあり、女を、女だけを捕らえている。

「お前の願いを俺は叶える」
「私の願いをお前に叶えて貰う」

「だから傍に居ろ。最後まで」
「だから傍に居ると、最後まで」

『二人で始めたのだから、二人で終わらせよう』

其処で、初めて二人の視線が交差した。その視線は互いの身体中の血液を熱くさせ、痛いぐらいに激しく脈動していく。猛るほどに、狂うほどに、焦がれるほどに、強烈に。
沈黙、静寂。互いに言葉を語らず、ただ其処で互いを見つめている。今でも思い出せる、鮮明に再生できる、二人の出会い。一瞬に過ぎない脆い過去。過ぎていく異端の日々。その中で此処まで歩いてこれたのは、奇跡にも近い。
女の胸に痛みが奔る。静謐を思わせる冷たさの中、女は自嘲し、その表情をみて男は眉を寄せた。

「今こそ、叶えよう。お前の願いを」

その声に込められた暗い響きは、諦めであり、悲しみだった。その表情に浮かぶのは決意であり、想い。女は自分を侮蔑し、心の其処で後悔をした。男の前に、自分から切り出さなくてはならなかったと言うのに、その決意を秘めていたと言うのに。ただ何も言わず、必死に感情を押し込めていた事が、何より男の想いを物語っていたと言うのに、その意味に気が付かない振りをした自分に失望した。

「あぁ」

だが、それを悟らせるわけにはいかない。更に一歩。最早手を伸ばせば届く距離まで近づく。其処で真正面から向き合う。弱い月光に見える男の顔は穏やかで、心なしか輝いているようにも見える。だが、その手先が僅か、ほんの僅かだけ震えていた。
男は頷く。其処にあるのは理解と認識だけ。それ以外の感情は無い。

inserted by FC2 system