今日は久しぶりに時間が取れた。だから、帰りに少し回り道をして果物を買ってきて、ナナリーと束の間の休日を楽しむことにした。
行儀良く座るナナリーの前で、我ながら器用に林檎を剥いていく。そして丁度全部剥き終わった時。

「――ぁ」

少し痺れるような痛みが奔った。慌てて掌に視線を向けると、一筋の血が紅の痕をつけ、垂れていく。
迂闊。つい気を抜いてしまった自分に嫌気が差す。

「どうかしたのですか?お兄様」

「あ、いや。少し切っちゃったんだ」

ナナリーがそっと俺の手を取る。あまりにもひんやりとした掌の、細い指先の感触に不意に胸が高鳴る。
掌の血がナナリーの指先に流れていく。ゆっくりと。

「お兄様ったら…」

微笑んだその唇が、そのままゆっくりとスローモーションのように俺の掌に近づいていく。ナナリーが何をしようとしているのか、気が付いている、判っているはずなのに。何故か、ただ黙って俺はその光景を眺めていた。
唇が、傷に触れた。舌が、傷を舐め上げる。掌を伝う舌の感触を振り払う事が出来なくて、ただ黙って見つめている。鳥肌が立つような言い様の無い感触が体中を駆け巡っている。背筋が伸びきって、視界が、思考が白く遮断されていく。
上目遣いの様なナナリーの表情。僅かに上がった口角が、何処か扇情的な錯覚を覚えさせている。唇から伸びる綺麗な舌が何度も何度も傷を往復していく。何度も何度も血を舐めあげる。眩暈が離れない。

「……っ」

唇が小さな音と共に離れていく。それはまるでキスのようで。傷から血は止まっていて、もう流れていない。
俺は依然として何も言わず、何も動かず。ただナナリーの唇を凝視していた。

「お兄様…?どうか、したのですか?」

未だ掴むナナリーの手は冷たくて、心地良くて、とても細い。

「あ、いや…ありがとう。ナナリー…」

勝手に漏れて行く声は震えてて、掠れてて、とても暗い。体中が熱い。
首を傾げているナナリーの表情は、柔らかく微笑んでいるだけ。だけど、その盲目の目は確かに俺を見据えていてて。

「知っていますか?お兄様。掌への、キスの意味」

「え?」

急に呟いたナナリーに、拍子抜けしたような間抜けな声を返す。気が付けば、直ぐ近くにナナリーの身体があって、その顔は俺の耳元にある。
ナナリーの吐息が、俺の耳元にかかる。その呼吸が、耳から離れない。意識がまるでついていかない。俺は、何を?ナナリーは、何を言っている?さっき、の事?

「懇願です」

「な、にを?」

耳元に囁かれる言葉は、切なくて。甘い痺れが、身体に浸透していく。俺の言葉は掠れてて、何かに震えている。何かを吐き出そうとしている。

「ふふ…秘密です。お兄様」

再び目の前には、ナナリーの顔。穏やかな表情に、僅かに哂っている唇は、血のように紅く、艶めいていた。
ナナリーの声が、俺を惑乱するように響いていく。錯乱するように入り込んでいく。
ただ、掌の熱だけが、確かな感触を産み出していた。

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