「乾杯」

冴えた満月の下、何も無い空間に、グラスを交わす音だけが響いた。
唇から爽やかな酸味が咽喉に流れ込むのを感じていた。

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この世界の中では、人の居ない時間を探す方が難しかった。何処へ行っても誰かの目が付いて廻る。
悩んだ挙句、私は開き直って抜け出す事にした。タオルに氷と例のモノを包んで鞄に入れる。本当はクーラーボックスとかが欲しい所だが、あまりかさばると目立ってしまうので断念した。うっかりして見つかったりでもしたら大変だ。
今日は渇いた暑さだが、風が心地よく、気持ちのいい日だった。警備の目を盗んで、部屋を飛び出す。
渇いた空気の中、静かに静かに歩いていく。高い空の上、満月が冴え冴えと輝いている。まるで輝いているようで、青白い光が私を、庭園を照らしていた。その光景は何処か平面的に見えて、何処までも歩いていける錯覚を覚えていた。
やがて、背の高い門を潜ると、見慣れたアリエス宮が緑に囲まれて青白く浮かび上がってくる。静かで濃淡な雰囲気の中、私は音を立てないように静かに歩いた。

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「…姉上、本当に来たんですか」

ルルが心底驚いた、それで居て呆れたような表情を浮かべた。でも、起きていた。きっと私が来ると微塵も疑っていなかったのだろう。ルルはそういう子なのだ。捻くれて、反発してるけど、根は素直で良い子。
こっそりと、慎重に音を立てないように窓から入り込んだ。暖炉も明かりもついてない部屋は、月光だけに照らされていて、青白い。その中で二人の吐く白い息が、雲のように揺れては消えていく。
私は、鞄から手早くグラスを取り出し、テーブルの上に置く。次に氷を入れて、お酒を流し込む。最後に何か炭酸を入れて、黒い棒でかき混ぜた。

「……これで、大丈夫なはず」

目の前には儚い雪のように白い飲み物。飲んでみると、程よいアルコールの味と、甘みが口一杯に広がっていった。爽やかな柑橘系の酸味と、甘味な口当たり。だけど、咽喉が熱くなってくる。

「………っ!?」

ルルは一口飲んだだけで、真っ赤になってしまい。咽始めた。慌てて背中をさする。

「だ、だいじょ…う」

涙目で言われても説得力が無い。とりあえず、私はルルのグラスから少し口に流し、そして更に私のグラスに移し変える。それから、炭酸だけをルルのグラスに注いだ。

「…ぁ」

美味しいと笑った。まあ、殆ど炭酸だけになってしまったが、子供のルルには丁度いいのだろう。私もまだ子供だけど。
姿鏡を覗くと、寒さかアルコールか、両方か。二人の顔は真っ赤に染まっていた。

「…姉上」

ルルの指が私の顎から、咽喉、首、そして鎖骨へ流れていく。

「……僕」

私は黙って首を振った。とたんに、ルルの双眸から涙が零れていく。止まらずに、ずっと流れていく。
沈黙。私もルルも、本当に何も言えなかった。本当に言葉に詰まり、二人して窓から青白い月世界を眺めていた。
泣きながら、それでもルルは笑った。その気配を感じたけど、私は直視できなかった。最後まで。

――――――――――

「乾杯」

冴えた満月の下、何も無い空間に、グラスを交わす音だけが響いた。
唇から爽やかな酸味が咽喉に流れ込むのを感じていた。口内をきゅっと引き締める甘みが舌に心地良い。味わう事をせず、ただ黙って飲み干した。
隣で寝ているルルと、ナナリーの無事を祈って。私は大きく深呼吸をし、グラスの中身を空けた。

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