桜舞う樹の下で、綾時が笑っていた。何も言ってないのに、奴の声が鮮明に聞こえる気がする。

これで、良いのか?
お前は、満足なのか?
俺は、出来ればもう少し、お前と一緒に居たかったよ。

語りかけた声は、何処にも響かずにぼやけて消えた。やがて視界も遠くなるように霞んでくる。

「…や、とも…智哉」

暖かい、確かな感触が……

 

――――――――――

 

「智哉」

未だ覚醒しきってない視界と、明るい逆行の所為で姿は確認できなかったが、流れるような紅い髪と、胸に響く凛とした声は間違えるはずは無い。

「美鶴」

呟くように、その人の名を呼んだ。

「全く、君は…こんな所で寝てると風邪を引くぞ」

呆れたように微笑む美鶴。身を屈めて覗き込むように俺を見ていた。その髪が、ゆっくりと風に流されている。

「……」

ふと、今見ていた夢が思い出される。少し胸が痛くなって。一瞬だけ、泣きそうな顔をしてしまったかもしれない。美鶴の表情が少し曇る。心配そうな顔。

「…大丈夫だ」

自分でも分かるぐらい、ぎこちない笑顔。こんなんじゃ、彼女は誤魔化せられないだろうが。

「もう、終わったんだからな」

「……そうだな」

美鶴は何も言わず、静かに笑った。身を任せていたベンチの隣に聳える桜の樹も、緑の蕾を見せ、後は花を咲かせるだけだ。
もう直ぐ春が来る。一年前、自分の運命を変えた季節。それが再び巡って来る。運命だけではなく、自分自身を変えた季節が。

「あっという間だったな」

不意に口から飛び出た言葉。それを耳にした美鶴が一瞬だけ考え込んで、口にした。

「…充実していた。と言う事か?」

「……ああ。色々と思い出す。良い事も、悪い事も……美鶴はどうだった?」

寝そべっていた体を起こし、美鶴に問いかける。美鶴は屈めた体を起こして、少し驚いた表情を見せた。そして眼を細め、あからさまに不機嫌な声で答えた。

「…どうでもいい。強いて言うなら、クソくらえ、だ。」

不機嫌で、怒っているようなのに、それでも楽しそうに言う美鶴の姿が眩しいような気がして、俺は目を細めた。

「…くっ。それ、俺の真似か?」

「笑うとは失礼だな。これでも自分では似てると思ったんだがな」

約半年前、美鶴が俺に質問した事。そして俺はそう答えた。まさか、覚えていたなんて。

「あっという間、か。それはやっぱり、智哉。君にとって掛け替えの無い一年だったのだろうな」

「……美鶴。お前はどうだった?」

美鶴の言葉には答えずに、逆に質問をする。半分以上をば自堕落に過ごしてきた俺が、素直に楽しかったと答えるのも癪だったし、頭脳明晰、容姿端麗、あらゆる面で欠点の無いお嬢様。そんな美鶴がどう答えるか、少し興味が出ていた。美鶴は少し考えるしぐさをした後に、答えた。

「結構個性的なメンバーで、手が掛かったな」

そう言って俺のほうを見た。一番手が掛かったであろう俺はただ苦笑するしかなかった。

「荒垣、お父様の事もあった…でも」

言葉を切って美鶴は空を仰ぎ見た。そして瞳を閉じ、暫くその場に立っていた。思い出しているのか、感傷に浸っているのか。そして、再び俺に向けられた瞳は、とても優しく、思わず吸い込まれそうなほどに見惚れてしまった。悔しいが、綺麗と思うしかなかった。

「楽しかった。智哉もそうだろう?」

そう言って微笑む美鶴はとても綺麗で、そんな美鶴の表情に釣られて、俺も微笑んでしまう。

「……ああ、楽しかった」

心から、そう思えた。

背を向け続けた俺に、ずっと向かい合ってきた美鶴。
その所為で何度も衝突したが、何度も救われてきたような気がする。
この一年間で色々なことを学んだ。
これまでの日々が楽しいと、思えるほどに。

「そろそろ、帰るか?」

手を引っ張られる。美鶴の手。美鶴はくすくすと笑っていて、くいくいと小さな力で俺の手を引っ張る。俺は今情けなく顔をだらけさせてしまっているのかもしれない。

「エスコートを頼むよ。お姫様」

そう言うと、美鶴は困っているような、照れているような、複雑な表情でこちらを見たまま動かない。俺は手を繋いだまま、ただ微笑んでいる。美鶴は少し呆けていたが、やがて僅かに頬を染めて歩き出した。
美鶴が少し前を歩く。その手に連れられて、俺が少し後ろを歩く。まるで子供のように。きっと、何度も彼女に手を引かれて歩いてきたのだろう。

「そういえば、今日の君は素直で饒舌だな」

こっちを振り返り、満面の笑みで美鶴が楽しそうに言った。

「ああ」

素直に笑ってそう答えた。美鶴の手が暖かい、美鶴に引かれていれば、きっと道を間違えることは無い。美鶴が道に迷ったら、今度は俺が引いてあげよう。
この距離が心地良い。俺は繋いだ手に少しだけ力をこめた。

inserted by FC2 system