春の日差しは暖かかった。
桐条美鶴は寮内で暮らしている。借りたはずのアパートには越しておらず、既に誰もいなくなったこの学生寮で一人生活をしている。
ぼんやりと彼の事を思い出そうとする。その背中、仕草、声。未だに没しているモノのはずなのに、既にその記憶はあやふやになっていた。
溜息を一つついて、外に出てみる。桜は満開だった。風に吹かれ、幾つかの薄紅の花弁が宙に舞う。その風景は、私の思い出が流れていくようにも、見えた。薄く、綺麗で、儚くて、それでいて凛とした花びら。
それらの風景は、涙で滲み、ぼやけていく。
「智哉、約束しただろう?一緒に、花見に行くと」
空に問いかける。彼方に浮かぶ人影に。空の彼方、記憶の彼方、そして、思い出の彼方に。その約束。それだけを胸に、信じ続ける。待ち続ける。だから、待ち続けよう。
桜は咲いて、やがて散る。何度繰り返すか分からない。それでも、何時か来る、彼との春。彼と見たい、この桜を、この風景を。
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最後の日。最後の時間。前を歩く彼の姿を見て、こみ上げて来る涙を必死に抑える。このとき既に、彼との別れは決まっていたのかもしれない。
「……今日で最後か」
「………智哉」
呟く声に耳を傾ける。思わず肩を掴みこちらに引き込む。その諦めに似た呟きに絶望した。
「何で、そんな事を…!」
今言うのか、と言葉は出ない。そのかわりに私の腕が振るえて、彼の身体を揺らす。日は既に暮れ、暗い。月の光と街灯だけが世界を照らす。私の涙は、多分見られていない。
「美鶴」
彼は笑って、今まで見たことの無い笑顔で、私に言った。
「俺はそこまでロマンチストじゃない」
軽口めいた口調で、けれどしっかりと。
「けど、お前の事は忘れない」
その言葉に、堪えていた涙が溢れて、流れて、零れてしまった。思わず抱きしめる。何も言わず、ただ嗚咽を漏らして泣き続けた。言わなくても、私の想いは通じると、そう信じていた。
好きだと、泣き続けた。愛してると、叫び続けた。その慟哭は夜の闇に消え、風に流され、世界に溶けていく。それでも、止まらなかった。
「………美鶴」
呆れたように、だけど照れたように、智哉は私に向き合った。私の涙を指で掬い、私の嗚咽を両腕で支えて、私の慟哭を身体で抱きしめる。
「……もし覚えていたら。何がしたい?」
一つだけ、適えてやると。彼は照れくさそうに呟いた。その時の私は、何を考えていたのか、あまり覚えていない。だけど、その時の言葉だけは覚えている。いや、思い出した。
「……君と、春に、花見に行きたいんだ――」
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待ち続ける。この町で、この寮で。きっと何時か、君が帰ってくると。そして、二人で桜を見に行くんだ。
彼は覚えていた。私は忘れていた。だから、この願いは適わない。それでも―――