雨が降っている。
それはまるで細い糸のようで、しとしとと絶え間なく上から下へ流れている。
美鶴は、バス停のベンチに腰掛け、ただ静かにバスを待っていた。
放課後――それも、帰宅部の生徒と部活動の生徒が帰宅する間の、中途半端な時間だからだろう。ベンチに座る生徒は自分だけしかいない。
美鶴は、ただ呆然と煙る街並みを見ていた。
何時もの美鶴なら、単語帳を開くなり、文庫本を読むなり、何か有意義に過ごす待ち時間。
けれど、今日は違った。美鶴の視線は元より、醸し出す雰囲気そのものがいつもと異なる。
どこか憂鬱で覇気が出ない。
その理由は女の子を18年もやれば分かりきっていて、今さらどうしようという気も起きない。とにかく、早く終わって欲しいと願うだけだ。
――と、視界の端で何かが動いた。
なんだろう、と首を右横に向ける。
ぷに。
「あはは。引っ掛かかりましたね」
視線の先にいたのは、やたらご機嫌な様子のゆかりだ。彼女は、こちらの右頬を人差し指で突ついた姿勢で破顔している。
この親友は、たまにこういう幼稚染みた行動を取るから困ったものだ。いつもなら何か言って切り返すところだけど、残念ながらというか、今日はそんな気分じゃない。
「……はぁ」
溜め息と共に、ゆかりの人差し指を下に退ける。いつから隣に座って美鶴が気づくのを待っていたのかは知らないけど、その熱意を違う方向に向けたらどうだろうか。
「ゆかり…こんなことして楽しいのか?」
「え?楽しくないですか?」
「…………」
ノーコメント。
無言で視線を前に戻す。何時もの美鶴との対処の違いに気づいたからか、ゆかりはそれ以上何も言ってこなかった。
黙って二人、バスが来るのを待つ。
――彼女とこうして過ごせる日々は、あと何回あるだろう。
それはもちろん、卒業した後でも会うことは出来る。でもそれは、学園生活のときとはどこか違うように思えた。
「なぁ、ゆかり……」
「あ。バス来たみたいですよ」
間が悪く、右から来るらしいバスへと顔を向けたゆかりがつぶやいた。
美鶴はゆかりへと振り向いた姿勢のまま、小さく苦笑した。自分でも何を言おうとしたのか分からない。でも、それは今言わなくてもいいことのようだ。
「ごめん、何か言いました?」
なんでもない――そう告げようと思っていた。
振り返るゆかりの唇と美鶴の唇が触れ合い、言葉を紡げなくなるまでは。
「――――」
どうしようもないくらいに硬直したまま、
美鶴は息も出来ずにゆかりの瞳を見つめていた。
対するゆかりは不意打ちの出来事に、目を瞬かせている。
(……って、ちょっと待て!)
血の巡りが悪いからか、どこか茫洋とする頭を心中で叩き、全力で後退る。どかっ、と背中がベンチに触れるところまでバックしてから、ようやく息を吸う。酸欠一歩手前だったせいで思わず深く吸い込んでしまい、けほけほと咽た。
――いや、待て。落ち着こう。
とにかく、今起きたことを順序立てて整理しなくてはいけない。
えーと……
「美鶴先輩ったら……大胆ですね♪」
「――――」
月モノのこととか、同性のキスでも初めてとしてカウントされるのかとか、いや、初めてではないが…じゃなくて、進路のこととか、物凄い勢いで美鶴の頭の中を駆け巡った。
一拍後、極力感情を抑えた声で美鶴は言った。
「……今のは不可抗力だ」
「え?そうなんですか?ん…私が指でしたことを、先輩がそのお返しに唇でやったのかと、私は思ってたんですけど……っていうのは冗談。うん、不可抗力。事故ですよ、事故」
無言でかざした右手を恐れてか、大げさに飛びのくゆかり。その後ろに見えるのはバスのライトだ。雨の中を進む灯りはどこか幻想めいていて、さっきまでの不運な事故なんて綺麗に洗い流してくれた……と思いたい。
バスがブレーキ音を響かせ、ゆっくり路側帯に寄せて止まる。
乗降口の自動ドアが開くやいなや、隣から水溜りをまたいでゆかりがバスに飛び乗った。はい、と右手を差し伸べてくれる。
美鶴はその手を取ろうとして――
不意にわけもなく怖くなった。
「ん? どうかしました……?」
その場で立ち尽くすままの美鶴を見て、怪訝に思ったゆかりが尋ねた。その間も差し出した右手が濡れるのも構わず、そのまま右手を差し伸べ続ける。
美鶴は言うか言うまいか迷った末、
(言わなくていいこと、だな……)
と、先ほどした判断を改めて下した。
だから、美鶴を見つめて口を開いた。
「――私たち、ずっと友達だといいな」
けれど、口からあふれたのは想いとは裏腹なセリフだった。
一大決心をして言った言葉ではない。
ただ、心の隙をついて、ふっと浮かび出た言葉だった。
でも、それは確かに心からの言葉だった。
卒業という二文字が告げる現実。近い未来を不安に思い、気がつけば、すがりつくような頼りない声が口から漏れていた。
美鶴の唐突な言葉にゆかりはきょとんとした後、あっさりと首を横に振った。
「違いますよ、美鶴先輩」
告げる、その瞳。
どこか情緒不安定な美鶴を見つめる瞳は、湖畔のように優しく穏やかだ。
「友達でいられたらいいじゃなくて、私たちはずっと友達でしょう?」
何を言ってるの、と咎めるような視線で美鶴見る。これは珍しい、いつもと逆だ。まさかゆかりに叱られる日が来るなんて。
けれど――なんて心地良い叱りの言葉なんだろう。
「そう……だな」
美鶴は確認するように大きく頷き、


「ああ。私たちはずっと友達だ」


差し出されたゆかりの手を、強く握り締めた――

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